母と息子

あまり語られない母と息子の毒親関係について

【乳幼児〜小学4年】両親の不和

 私の物心がついたとき、すでに両親の結婚生活は破綻していた。両親による仲の良さそうな会話、というか通常の会話も一度も見たことがない。

 父母のコミュニケーションは、基本的に父による命令と母の反発、両者による嫌味の応酬だけであった。

 

 人生で一番古い記憶は、恐らく3歳か4歳くらいのときのものだ。母に「おいで」と声をかけられ、物置代わりに使われている2階の部屋に入った。乾燥して埃が舞っていた。西日が差していたため、光がクッキリと形を作っていたのを覚えている。

 母が私を抱きしめ、肩に顔をうずめて

「お父さんがひどいことばかりする。お父さん大嫌い。もう死にたい。あんたは一緒に死んでくれるよね。一緒に死のうね。もうあたしは死にたいよ」

 と言う。

 私が「うん」と答えると、母は私を強く抱きしめた。

「一緒に死ねば怖くないからね。死のうね」と母は、また言う。

 母の涙が私の服に染み、すぐに冷たくなっていった。涙と対称的に母の息がとても熱く感じた。

 

 母を失うという不安、死というよく分からないものへの恐怖で身が縮んだように感じた。だが、そういうときでも母が抱いていてくれれば怖くはないだろう、死んでも母と一緒に天国で楽しく暮らせるのではないか、でも死ぬ瞬間は怖いし痛いのだろうか、などと色々な思いが頭をよぎった。

 

 それから、こんなことを考えるのが嫌になった。自分にはどうにも解決できない状況になっていること、また本来は1番に頼りたい存在である母が、母が抱えている問題の解決を私に要求してきていることに、たじろいだ。

 しかも、その解決方法は「どうしようもないから、一緒に死んでくれるよね」というものだ。

 

 この頃の私は、母はこの後何十年でも、きっと永遠に自分のそばにいてくれるのだろうと能天気に感じていた。幼児とはそんなものだろう。その母親が、「死んでくれ」と泣きながら頼んできている。

 

 母から身を離した後、自分の悪夢のような妄想だったのだと思おうとした。

 しかし、母の涙が服の内側で肌に張り付いていた。服をつまんで何度も引っ張り、空気を入れて乾かそうとしてみる。しかし、その度に濡れた布が肌にペタペタと張り付き、冷たくなる感覚がひどく不快だった。

 

 家族全員が揃った風景、イベントというものは、ほとんど記憶にない。と言うより、実際にそんなことは行われなかった。家族4人で旅行や、外食など遊びに行ったことは一度もない。母が父との外出を拒否するためである。

 

 夕食時、両親と2歳年上の兄、私の4人が揃う。

 母は、いつもわざとらしく不機嫌そうに父に食事を提供する。

「父がひどい人間なので、自分が悪い態度を取らざるを得ないのだ」と子どもたちにアピールしていた。

 負けずと父が大儀そうに食事を摂るというのが日常の光景だった。

 

 幼い子どもの前でそんな態度を見せるのは生育環境的に良くないことだ、という意識も全くなかったようである。もっとも30年前のことであるから、子どもの人権やそのような態度の影響について、今ほど顧みられていなかったことは考慮すべきだろう。

 母は、父の出勤中に父の悪口を私と兄に毎日、一日中語った。それしか話題はなかったほどだ。自分に対する様々な身勝手な行動。自分勝手な発言、気遣いのない態度。

その内容は、毎日更新されていく。

「お父さんには死んでほしい。あんたたちも早く死んで欲しいよね?」

「あたしたち3人で死ぬまで楽しく暮らそうね?」

 と同意を求めた。私達はそれに頷いた。夜中、私達子どもが寝たと思った両親が喧嘩する声がいつも聞こえてきていた。

 

 実際のところの父がどういう人間であったのかというと、正直なところ私にとって父は存在感がなく、印象もなかった。

 たまの休みの日に、気まぐれに色んなものを与えてくれるくらいの存在であった。家庭に興味がなく、仕事の休日に友人や親戚とゴルフに行く。そのために生きている人だった。だからといって、とりたてて仕事に夢中になっているとか、責任感の強い仕事人間というわけでもなかった。

 だから私は、別段父が好きでもなかった。単純に母が大好きで、私は母を崇拝していたように思う。

 

 しかし、父にも好きなところはあった。

母が、いつも自分を中心にした陰鬱な世界を築き、その登場人物として私達を配置し、絶対に出さないようにしているとは子ども心に感じていた。

 そのため、たまに思いつきで急に「出かけよう」と声をかけてくる父を、この窮屈な世界から外界に出してくれる可能性のある人、と感じてはいた。

 その私たちの解放感を見抜いていたのか、母は、私たちが父と出かけるたびに強い警戒感を示した。父との外出から帰ると「お父さんといて、つまらなかったよね? 嫌だったよね?」と尋ねる。私は「うん」と答える。一生懸命父のその日の行動の気に入らない点を思い出す。「ここが悪かったので、ずっと不快だった」「こんなことをしなければいいのに」「みんなからも嫌われているに違いない」などと答える。

 そのうち、父と話すとき、何かをするときは常に不快感を感じなければならないと思うようになった。

 父といるときは、いつも気乗りしないで「面白くない」などの文句を言うようになった。もっと言えば、母のいないところで楽しく過ごすことは罪であると言う感覚が生まれるようになった。

 

 母は父を様々な言葉で侮蔑し、否定し、そのことに同意するか尋ねる。父を否定するような発言をすると母は喜んだ。父を肯定するような発言をするとどうなっていたかと思うが、そんな発言は一度もしたことがない。

 

 実際のところは、父から幼児期の私に対する加害は、公平に見れば特になかったように思える。

 

 しかし、今から客観的に見ると、確かに父はとても自己中心的、自分勝手な人間であった。周囲を顧みたり、反省したり思いやったりすることは絶対にしない人間だった。

 何でも決めつけ、自分が賢く相手が愚かで誤っていると糾弾した。すぐに謝罪や反省を声高に要求し、ときに暴力的態度を見せた。

 そういった男の妻となり、一生隣で様々に理不尽な命令を出されることは、たしかに耐え難く、不快なことであろう。

 だが、同様に、そうして病気になった人の自己憐憫解消の道具として一切の自由意志を認められない子どもの人生もまた、辛いものだ。

 母は今でもそれが理解できない。「私は可哀想」以外の意味の会話がほぼできない人間である。

 

 父の病的な独善性とその表出については、のちのち自分も実感することになった。これは後に語る。

 

 また母は、キリスト教新宗教であるエホバの証人の訪問を受け、彼らを受け入れて、私と兄に学ばせるようになった。この宗教の教義と彼女の与えられた環境や世界観などに親和性があったのだと思う。

 私は、この宗教を生まれたときから習わされることになり、これもまた、大きく自分に影響を与えることとなった。

【はじめに】毒親について

 「毒親」については、既に散々ネットで取り上げられている。私も、この毒親についての経験と、今考えていることを書かせてもらう。

 毒親という言葉は、もともとスーザン・フォワードというアメリカのセラピストが著した本『毒になる親 一生苦しむ子供』が発祥となっているようだ。

 この本を書店で、あるいはネットの記事で目にし、結果的に手にとった人は、親子関係についてなにか言語化できない、しかし無視できないものがあった人なのだろう。

 そうしてこの本を手に取った人の多くがそうであったように、私も「ああ、そうだ」と思った。

 

 40年間、親子関係、特に母親との関係に悩んできた。その呪縛から逃れられるようになってきたと感じたり、それは思い違いだったと気づいたりの繰り返しである。

 

 「毒親」は、母と娘の関係が語られることが多いようで、男性の経験談はあまり見かけない。だが私は、息子の立場から母との関係について記したい。このテーマ(息子と母親)のことはまだあまり語られていないと思う。

 

 このテキストが本当に誰かの役に立つのかは分からない。しかし、もし一人でもこのテキストによって何らかの気づきやヒントがあればと思う。現在同じような環境下にある人がいれば、私の気づきを踏み台にして、無駄な時を過ごさず、豊かな人生を歩んでほしい。

 

 加えて、「あなただけではない」ということを知っておいて欲しい。自分が一番悩んでいた学生時代にこのような体験談は他に全く見かけることはできず、とても孤独で辛かったためである。

 

 また、この記録の最後には、なぜ男性の経験談はあまり語られないかについても考察を述べたい。

 

 それから、「宗教2世」についても記す。私の場合は、エホバの証人である。生まれたときからエホバの証人の勉強をさせられていた。

 

 正直に言って、思い出したくないようなことだらけである。

 過去を振り返り、「他に方法はなかったのか? いや、なかったのだろう、やるだけやったのだ」などと考察を加えるのは、不快なものである。本来であれば豊かに過ごすことができた時間(時間とは人間にとって生きることの価値そのものだ)を何十年も無駄にし、人生の方向性を決めてしまったかもしれないことについて考えるのだ。

 考えすぎ、苛立ち、キーボードを打つ手が止まりそうなる。そのため、できるだけ機械的に時系列で書いていくこととする。